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京都吉兆

徳岡邦夫

CHEF / JAPANESE

間断なき創造

京都𠮷兆三代目は、日本から世界を見据える。この先も日本の食文化の向上を目指すため、持続可能な社会をつくるためのビジョンを掲げる。

徳岡邦夫(とくおか・くにお)


1960年大阪生まれ。80年から料理修業を始め、祖父で𠮷兆創業者の湯木貞一氏から料理の核心を学ぶ。95年から総料理長に、2009年に京都𠮷兆代表取締役社長に就任。

京都吉兆三代目

「𠮷兆」は1930年に、湯木貞一が大阪に「御鯛茶處𠮷兆」を創業したことから始まる。そこから各地に出店し、91年に分社化された。徳岡邦夫氏は2009年に父から後を継ぎ、「京都𠮷兆」の三代目となった。

 

「昔から料理は好きでしたし、いずれ継ぐのだろうとは感じていましたが、子供の頃は大工に憧れていたし、高校時代はバンドでドラマーをしていて、プロのミュージシャンになりたいと本気で考えていました。しかし、その答えを出すために子供の頃からお世話になっていた龍安寺の塔頭・大珠院で修行するうちに、周りの人皆が喜んでくれるのは自分が𠮷兆を継ぐことだと理解して、この道に進むことを決めました」

 

それからは、音楽で世界に出る代わりに、料理で世界に通用する人間になりたいと思うようになったという徳岡氏。身近で世界に一番近いのは、「世界の名物 日本料理」という言葉を掲げ、日本料理を文化として広めていた祖父の湯木貞一氏だった。そこで「祖父のそばにいられること」を条件に「𠮷兆」に入社。湯木氏は、茶の湯に通じた人で、その周りには茶席を通して知り合った政財界の名士たちが集まっていたのだ。湯木氏は茶の湯や彼らとの交流を通して得たものを、料理に表現していた。

日本食文化の創造

「若い頃の夢は、世界に通用する料理人になることでした。今は海外でも複数の事業に関わっているので、それはかなえられているかもしれません。しかし、それだけでは十分ではないのです。京都𠮷兆という店はもちろん、日本料理と、その食材を提供してくださる生産者の方や地域を豊かにし、持続可能なものにしなければいけません」 

 

そのために、さまざまな企業や自治体と事業を進めている徳岡氏。最近では天然由来の素材だけを使用した「アイスの実≲国産野菜シリーズ≳」を江崎グリコと共同開発し、高評価を得た。

 

「𠮷兆ブランドをかたくなに守るのではなく、伝統は大切にしつつ、より時代に求められるものに変換していく。そして新しい日本の食文化を創造することが使命だと考えています」

魯山人作「雲錦大鉢」

「春の桜を雲、秋の紅葉が錦に見立てられた意匠を雲錦といいますが、魯山人の雲錦大鉢は五つ残っているといわれています。そのうち三つが美術館にあり、一つは行方不明になっていて、もう一つがこれです」

 

以前は料理の鉢として大勢の席やお祝いの席で使用し、春なら筍とワカメ、秋なら海老芋の焚き合わせを盛ったり、氷を入れてお造りを盛ったりしていた。人数分を盛り込んでいた頃もありましたが、温度もおいしさの大事な要素との考えから、その後は数人分を盛り込み、あとは厨房から熱々のものを出すようになったという。

 

「この器に盛っていくと、かなりインパクトがあるので、皆様、大変注目してくださいました。父は骨董商を営むお客様から、高額で譲ってほしいと言われたこともあったのですが、“店の宝なので”とお断りしたと聞いています」

小堀遠州筆の軸

千利休の弟子で「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた小堀遠州による軸。百人一首の藤原忠平(貞信公)の和歌「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」(宇多上皇が大堰川へ御幸の際、小倉山の紅葉が見事なので、御子の醍醐天皇にも見せたいと言ったことに対して忠平が詠んだ歌)を書いたもので、この軸を飾るために書院造の「待幸亭」を造ったという。

 

「こうしたお軸は店には700ほどあり、季節やお客様に合わせて、料理だけでなくお軸や器も替えておもてなしできることは、楽しみでもあります。お客様のためにあれこれと考え、喜んでいただくことが、茶道でも料亭でも、おもてなしの基本だと考えています。祖父から父へと受け継いだものを自分の代になって自由にできるのはうれしいことですし、大きな財産ですね」

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